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東京高等裁判所 昭和48年(う)2551号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

控訴の趣意は、新潟地方検察庁検察官中野国幸名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は弁護人寺沢弘外二名作成の弁論要旨と題する書面に各記載のとおりであるから、これらを引用する(なお当審の弁論終結時に双方から提出の各弁論要旨参照)。

所論は、要するに、本件事故発生のさい被告人が車輛を運転していたことは、被害者の遺体が後部座席から発見されこれが事故後に移動したとはみられないこと、事故直後被告人が救助者らに自分が運転していたと述べておりこの供述は十分信用できること、原審が被告人の司法警察員に対する自白調書二通の取調請求を同調書に任意性がないとして却下したのは不当であり、これが原審の判断を一層あやまらせたおそれがあること等に徴し明白であると論じ、本件について合理的疑いを免れないとして無罪を言い渡した原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認があるというのである。

記録を精査し、かつ当審における事実取調の結果に徴すると、被告人が本件車輛を運転していたという点については相当の嫌疑を免れないとはいえ、この点に合理的疑いが残るとして無罪を言い渡した原判決の判断が誤まっているとまで断ずることは困難である。

まず本件では、唯一の争点は、車輛を運転していたものが被告人、被害者のいずれかという点にあるが、これを究明するについて欠くことができないと思われる証拠(とくに客観的証拠)の収集・保全がきわめて不完全であること、一言でいえば、初動捜査に著しい欠陥のあることが目につく。たとえば、被害者の死体解剖が行われずずさんな死体検案書しかないため、被害者の受傷の部位・程度・状態、正確な死因などが明確でないこと、事故現場の実況見分も不十分・不正確で、しかもその見分の結果を記載した調書の中には、はっきり嘘とわかるような事実の記載があり、このため車輛の転落状況がよくわからないこと、すなわち、車輛が転落する直前に地上に印した車輛の跡が制動痕かタイヤ痕かの区別さえ明らかでないこと、墜落時に衝突したとみられる杉の木の位置・衝突個所、さらには落下後水中に至るまでに車輛が崖に残したはずの痕跡やガラス類の散乱などの状況が全く不明なこと、車輛自体の損傷、内部の遺留品等の状態が十分に見分されていないこと、この実況見分の際には被告人は立ち会っていないのに、あたかも現場にのぞんで「車は阿賀野川に落ちているものと思う」とか、「Sは助手席に乗っていたような気がするが、車が川の中に落ちたあともあがってこないところをみるとまだ車の中に居るものと思う」などと指示説明したかのように創作されていることなどを指摘することができる。これらの点は、運転席でハンドルを握っていた者とその他の席にいた者とが事故の際どんな衝撃を受けたものかの推定を困難にし、ひいては被告人の自白もしくは、弁明の信用性を判断しにくくしている。当審で取り調べた鑑定人上野正吉作成の鑑定書は不十分な資料を刻明に調査・検討し、各受傷の部位、程度などから転落時の状況等を想定し、運転していたのは被告人であろうと推認している。この論拠には傾聴すべき点がすくなくない。しかし先に説いたように初動捜査の欠陥は余りにも大きく、車輛の転落の経過状況やこれが車内の人間に与えた衝撃等に関する具体的な考察部分には種々の疑問を免れず、その推論の過程・結果を全面的に肯認することはできない。

所論は、被害者の遺体が後部座席から発見されたこと、およびそのさいの状態を重視・強調しているが、前記鑑定人の供述によると、本件のような事故の場合車輛の転落過程で前部座席にいたものが後部座席に移動することは珍しいことでも困難なことでもなく、本件でも被害者が前部座席から後部座席に移動した可能性の方が大きいとみられるというのであって、この点を有罪・無罪の決め手にすることはできない。また被告人が、救助された直後に誰が運転していたのかと尋ねられて、自分が運転していた旨答えたとの点は、事故直後の発言として一応その証拠価値は高いと考えられる。しかし当時被告人は水中からようやく脱出し崖の上にたすけあげられたばかりで、ぼう然自失の状態にあったと思われること、肉体的にもかなりの重症であったこと、そのあとすぐ入院した津川病院で逆に自分は運転していないと述べていること等の事情を考えると、被告人の事故直後の現場での発言だけから有罪と認定するのは相当でないと思われる。なお原審が被告人の自白調書の証拠能力を否定した点は、被告人の当時の身体の状態(もっとも後頭部亀裂骨折、脳挫傷の疑いがあったとしている点は前記上野正吉の鑑定書の記載に照らし誤っていると思われるが、これを抜きにしても被告人が相当重症の状態にあったことは間違いない。)。取調の状況等に照らし不当・違法であるとまではいえない。要するに本件初動捜査の著しい欠陥から客観的証拠が不足し、有罪の証明が十分でない場合にあたると認めるのが相当である。したがって、合理的疑いを容れる余地があるとして無罪を言い渡した原判決には事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

そこで、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横川敏雄 裁判官 柏井康夫 斎藤精一)

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